四川省成都市公文書館によると、「成都大爆撃」の被害者の遺族である楊小清さんが先頃、貴重な「日本東京地方裁判所判決書」の原本、及び関連の訴訟公文書を同館に寄贈した。新華社が伝えた。
「判決書」は2015年の「成都大爆撃」被害者の対日訴訟の一審裁判文書で、被害者67人の被害状況が詳しく記録されている。

日本東京地方裁判所の対西南エリア大爆撃の中国人被害者の対日訴訟の一審判決書の原本(撮影・唐文豪)。
大爆撃は、四川の人々全体が受けた苦難の記憶だ。1937年7月、中国全土で抗日戦争が広がると、四川から前線への支援を断ち切り、中国の軍人と民間人の戦闘意欲を奪うべく、旧日本軍は四川省を対象に、大規模な無差別爆撃を繰り返した。
判決書を読むと、まるで砲火の轟音が耳元に響いてくるようだ。旧日本軍は1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、重慶市に110回以上の空襲を行い、1939年5月3日と4日の大爆撃だけでも3391人が死亡し、2323人が負傷した。1938年から1941年にかけて、成都市に21回の空襲を行い、1761個の爆弾を投下し、1388人が死亡し、1988人が負傷した。1939年10月10日から1941年8月19日にかけては、自貢市に爆弾と焼夷弾1544個を投下し、987人が死傷した。1939年8月19日から1944年11月21日にかけては、楽山市に爆撃を実施し、少なくとも920人が死亡し、831人が負傷した。1941年6月23日には松潘県に爆撃を実施し、198人が死亡し、407人が負傷した。
1939年6月11日、まだ18歳だった成都出身の安緒清さんは大爆撃の犠牲になった。爆弾の破片が彼女のお腹に直撃し、彼女の母親の足首にも破片が貫通した。それから67年後、彼女と会ったこともない姪の楊小清さんが、中国各地の大爆撃の被害者、及びその遺族と共に、東京地方裁判所の原告席に立ち、日本政府に対して、戦争犯罪を認めるほか、謝罪と賠償を行うよう求めた。原告にはかなり高齢となった被害者本人のほか、楊さんのような被害者の遺族も含まれていた。

成都市人民公園の「成都大爆撃」記念碑を足を止めてみる男性(撮影・唐文豪)。
訴訟団の成都地区の代理弁護士・徐斌氏は、「判決書が事実と認定しているのは、旧日本軍の残虐行為のほんの一部に過ぎない」と指摘する。
成都市公文書館の公文書利用・編纂・研究処の賈燕妮処長は、「当館が保存している公文書に基づく大まかなデータによると、旧日本軍の大爆撃による、成都市民の死者数は1700人以上、負傷者数は3500人以上で、家屋1万5000棟以上が破壊された。さらに、少城公園(現在の人民公園)、塩市口、大慈寺(現在の成都太古里の所在地)も焼け野原になった」としている。
楊小清さんは、「寄贈した公文書を通して、今後の世代もずっと戦争の残虐行為を銘記することのほか、中国と日本の人々が貴重な平和を一緒に守っていくことを願っている」とした。(編集KN)
「人民網日本語版」2026年1月16日