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東京裁判――正義の審判と未完の課題

16:28, June 29, 2026 

日本・森 正孝

■はじめに

東京裁判を論ずるとき、たびたび引き合いに出される文言がある。米国人首席検事キーナンの冒頭陳述の次の一節である。

「裁判長、これは普通の裁判ではありません。私たちは戦争による破滅から文明世界を守る一部になりつつあるからです……。もし、既に文明に大きな災難をもたらした個人を罰する正義がなければ、正義そのものは笑いの種になるのです」

東京裁判は、カイロ宣言、ポツダム宣言、日本の降伏文書へと続いた一連の日本軍国主義解体の流れの“総仕上げ”として行われた。すなわち、日本軍国主義とそれを遂行したファシストたち個々人の犯罪を、膨大かつ反論の余地のない証拠を用いて、徹底的に断罪したのである。それはまさに、世界を「破滅」から「文明」へ、「侵略と暴力」から「平和と協調」へと取り戻すための正義の審判でもあった。

本年開廷80周年にあたって、本シンポジウムにおいて、東京裁判が歴史的正義と法的正義を確立し、戦後国際秩序の基礎を作ったこと、そのことが、日本が国際社会に復帰するための前提条件となったことを、一層鮮明に打ち出すことは、きわめて意義深いことである。

なぜなら、高市首相ら日本の極右勢力が、今もって、東京裁判を「勝者による敗者への裁き」「東京裁判史観による自虐史観の押しつけ」「自衛の戦争であって侵略戦争でない」などと喚く一方で、​軍国主義復活の妄想に駆られ、靖国神社参拝、軍備増強、自衛隊の強化、憲法改正のなどの動きを加速させているからである。本シンポジウムは、こうした妄想右翼勢力=新型軍国主義者への厳しい警鐘であるとともに、東京裁判の精神に立ち返って、我とわが身を振り返り、反省の契機を与えるものとなるであろう。

東京裁判のこのような歴史的意義・国際法的正義の評価については、すでに多くの識者や中国のメディアによっても指摘されてきた。本シンポジウムでも、各方面から同様な視点からの論究がなされるであろう。

一方で、東京裁判が米国主導の裁判であったがために、不問に付された日本の戦争犯罪が、未完の課題として数多く残されたことは周知の通りである。

筆者は、この40年間以上731部隊細菌戦について調査研究を行ってきたが、本稿では、この不問に付された日本の戦争犯罪、とりわけ、細菌戦と東京裁判とのかかわりについて、述べることとする。

■一度だけ細菌戦が法廷に……日軍細菌戦の提訴を試みた二人の米国検事の活動

結論から言うと、東京裁判では、731部隊とその兄弟部隊の南京栄1644部隊の細菌戦は、不問に付された。裁判は、1946年5月3日の開廷から1948年11月12日の2年6ヶ月続いたが、細菌戦関連の事実は一度だけ、46年8月29日の法廷で、サットン(David Nelson Sutton)米国検事補によって、ほんの少し触れられたのみであった。そこへ至るいきさつは、以下に述べる通りである。

マッカーサー(Douglas MacArthur)連合国総司令部(GHQ)司令官が、GHQの一局として国際検察局(IPS)を設置したのは、奇しくも日本が「大東亜戦争」を開始した4年前の同じ日、1945年12月8日であった。ほぼ同じころ、国際検察局首席検事ジョセフ・B・キーナン(Joseph Berry Keenan)が来日。続いて11ヶ国の検察団のメンバーたちは、1946年の年明けから春にかけて来日し、5月の開廷に向けて本格的なチーム編制が行われた。​サットン検事(David Nelson Sutton)とモロー検察官(James H. Morrow)も、46年2月に来日。来日すると同時にキーナン首席検事から、日軍の戦争犯罪の証拠収集のため上海と南京へ行くことを命じられた。任務は、「assignment(担当)AからH」までの8項目の内、2項目目の「assignment(担当)B」と呼ばれる「日本軍の中国における残虐行為」を担当することだった。南京大虐殺は言うまでもなく、細菌戦もこの中に含まれていた。サットンとモローは、精力的に現地調査と聞き取りを行った。

両人とも日軍が細菌戦を行っていたことは、すでに知っていた。それは、中国衛生署署長金宝善が、1942年3月31日、世界に向けて発信した、いわゆる「金宝善報告書」を読んでいたからだ。そこには、「日軍は細菌戦のために実験モルモットとして我が人民を使用し、飛行機を使って衢県、寧波、金華、常徳でペスト感染物質を散布した」ことが明確に記されていた。サットンは直接金宝善に会い、この「金宝善報告書」を入手した。そして4月には国際検事局主席検事J・B・キーナンにこれを提出している。

これとは別に、国際検事局は、細菌戦部隊・栄1644部隊から脱走し、中国に身を寄せた元1644部隊員榛葉修が1946年4月17日に記した6枚の文書と栄1644部隊の見取り図を入手している。そこには、「栄1644部隊では、コレラ、チフス、ペスト、赤痢などの細菌を秘密に製造し、これらを1942年6月から7月にかけて浙江省金華を中心とした地域に撒布した。その結果、中国軍が急いで撤去し、そこへ進軍した日本軍が撒布地域で小休止、または宿泊したため、中国住民ばかりでなく、日本軍にも多数の被害者が出た。さらに、1943年9月中旬、自分は杭州陸軍病院に赴いたが、同病院には日本軍兵士の伝染病患者が充満し、毎日5名ないし3名の死亡者があり、8月頃には病院の営庭にむしろを敷いて、数千の患者を収容した」と記録されてあった。したがって、国際検事局は日軍細菌戦を充分に知る得る立場にあった。しかし、これらは一切法廷に出されることはなかった。

こうした中で、8月29日の法廷を迎えたのである。

1946年8月29日の法廷は、南京大虐殺に関する立証や陳述が行われていた。サットンも、自ら調査した南京大虐殺について陳述を行った。ところが、サットンは途中、突如として栄1644部隊の件の陳述を始めたのである。以下、『極東軍事裁判公判速記録』に沿って、その場面を再現する。

この日、検察側は、「日中戦争」における「南京虐殺事件」に関する立証を始めた。サットン検事補は現場にいた中国人やアメリカ人宣教師などの陳述書を朗読、証拠として提出した。そして、午後3時に公判が再開されると、サットンは、突然、検察側も全く予想していなかった発言をした。彼は「その他の残虐行為に関する件」と言うと、次の報告を朗読したのである。

「敵の多摩部隊(栄1644部隊)は、俘虜となった我ら人民を医薬試験室に連れて行き、各種有毒細菌を彼らの体内に注射し、その変化を実験した。この部隊は最も秘密の機構であったため、この実験によって死亡した人数は明白ではない」と。

サットンは、澱むことなく続けた。ウィリアム・ウエッブ(William Webb)裁判長はあっけにとられて困惑した。彼はサットンに次のように尋ねた。「あなたは有毒細菌による反応を試した試験所の実験について、証拠を提出するのですか。それは、我々判事にとっては全く新しいことで、これまでに聞いたこともありません。あなたは陳述しているのですか?」

これに対するサットンの反応は、諦観の境地に達していたと思われる。覚悟を決めて言った。「我々は、引き続き、この問題に関する証拠を提出しようとは考えておりません」と。

サットンにすれば、南京事件の陳述の中で、敢えて栄1644部隊について朗読する以外、この法廷で日本軍の細菌戦について明らかにする機会はない、と覚悟を決めていたのである。まさに正義感から生まれたゲリラ的行動であった。その結果、わずかながらでも裁判記録に残すことができた。サットンにとっては、せめてもの救いであった。その後、裁判長の問いかけに素直に応じ、それ以上の証拠提出を控えたのである。

残忍な1644部隊の犯罪を調査し、それを充分に断罪出来ずに終わった正義の人・検事補サットンの口惜しさは、如何ばかりであったろうか!その背景では、米国が731部隊員の犯罪を不問にする代わりに、部隊が得た人体実験と細菌戦のデータを全て米軍に提供するという取引が行われていたのであった。

■米国による人体実験・細菌戦のデータの独占と引き換えに行われた免責

マッカーサー司令官は、来日する前から日軍細菌戦について大いなる関心を持っていた。日本占領直後から731部隊員の取り調べを行い、さまざまなデータを入手している。

これら資料からも分かる通り、東京裁判の進行の裏側では、取引が行われており、サットン検事の必死の努力にも拘わらず、日軍細菌戦・人体実験の犯罪は裁かれないままとなり、表に出されることはなかった。

この衝撃的犯罪が、日本民衆に広く知られることになったのは、1980年、森村誠一の著作『悪魔の飽食』の出版によってであった。すでに敗戦から35年が経過していた。

■ニュルンベルク裁判は、ナチスによる人体実験を裁いた

米国は日本の細菌戦部隊を裁かなかったが、「ニュルンベルク裁判」ではナチスの人体実験を裁いている。ナチスの人体実験は、英米仏ソの4大国による主要戦争犯罪裁判(ニュルンベルク裁判1945,11~46,10)のほかに、米国一国で、同じニュルンベルクの地で開いた「継続裁判」(1946,12~49,4)で裁かれた。この裁判は、全部で12裁判あり、その一番目が「医師裁判(Doctors' Trial)」である。被告23人のうち20人が医師であったが、うち7人に死刑、9人に禁錮刑が宣告された。死刑は1948年6月2日には執行されている。その中には、ヒトラーの主治医カール・ブラント軍医も含まれていた。 「医師裁判(Doctors' Trial)」で訴追された人体実験は、次の3つに分類される。(​1)「非人道的な人体実験」。低圧室でどの程度の低圧に耐えられるか、氷水に長時間浸け死に至る過程を観察。マラリア、発疹チフスなどを感染させワクチンの効果を調べるなど。(​2)「安楽死計画」という実験。「生きるに値しない命」と見なされた精神障害者や身体障害者をどのように効率的に殺せるかを調べる。ガス室殺害も含まれている。(​3)「人種絶滅実験」。劣等民族の増殖を防ぐ効率的な方法を開発するため、X線や薬品を用いた強制的な不妊手術や特定の身体的特徴を持つユダヤ人を殺害し、その骨格標本を作成するなどした。

731部隊や1644部隊が行った実験に勝るとも劣らない非人道的な人体実験が行われたが、東京裁判との違いは、この罪業が白日のもとに晒され、関係者が処罰されたことであった。さらに、​​この裁判の最大の遺産は、判決文の中にも盛り込まれた「ニュルンベルク綱領」である。それは、「​人間を対象とする実験において、被験者の自発的な同意は絶対不可欠である」という大原則であり、現代の医学におけるインフォームド・コンセント(説明を受けた上での同意)という倫理の根幹となっている。

■終わりに

以上述べてきたように、日軍細菌戦犯罪は東京裁判で問われることはなかった。その他、天皇、植民地、化学戦、強制労働、軍隊慰安婦などなど、多くの日本の戦争犯罪は不問となった。

しかし、だからと言って、東京裁判の歴史的意義や国際法上の画期的意義が軽視されることはない。

否、むしろ、この時を機会に(冒頭でも述べた通り)今日再び頭をもたげてきた高市ら日本の右翼の新型軍国主義の妄想を断ち切るためにも、戦後の平和と安定的秩序の基礎を形成した東京裁判の意義を、高らかに宣揚しなければならない。同時に、不問に付された日本の戦争犯罪を断罪するのは、他でもない私たち日本人民に課せられた課題である。それは極めて重い課題であるが、何年かかってもやり遂げなければならない。本論がいささかでもその役割を担えれば幸いである。