80年前、極東国際軍事裁判(東京裁判)は開廷前の準備段階にあった。当時、米国のデヴィッド・ネルソン・サットン検事補は国際検察団と共に来中し、日本軍による中国での戦争犯罪、特に南京大虐殺に関する証拠を重点的に収集した。検察団は南京大虐殺の目撃者複数と面会し、金陵女子文理学院の舎監であった程瑞芳らから書面で証言を得た。(文:周峰・侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館館長、国家記憶・国際平和研究院執行院長。人民日報掲載)
その後間もなく、サットンは再び南京で調査と証拠収集を行い、金陵大学の米国人教授ベイツや鼓楼病院の米国人医師ウィルソンら西洋人に加え、許伝音、伍長徳、陳福宝、尚徳義、梁廷芳ら中国人の証人に対し、東京の法廷で証言するよう働きかけ、実現させた。証人を訪ね歩き、証拠を集めたこの困難な過程は、サットンの日記が先ごろ発見され、整理が進むにつれて、一層明らかになっている。
東京裁判は法の支配の原則に基づき行われ、手続的正義を守り、被告人に十分な弁護権を与えたものであり、日本右翼の言う「勝者の裁き」では断じてない。日本軍国主義の犯した累々たる罪行は、検察側の厳密な立証と日本の戦犯の白々しい弁明の中で余すところなく暴かれたのである。
極東国際軍事裁判の11人の検察官は11ヶ国から派遣された。その一人、カナダのヘンリー・ノーランは、日本のA級戦犯であり南京大虐殺の元凶である松井石根の審理を担当した。現在、全33冊・3000ページ余りに及ぶ「ノーラン・ファイル」の影印版が侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館に収蔵されており、東京裁判における検察・弁護双方の激しい攻防をうかがうことができる。
1947年11月24日、ノーランは南京大虐殺について松井石根を尋問。ノーランの立て続けの追及によって松井はボロを出し、日本軍による残虐行為を初めて知ったのが南京入城後ではないことが明らかになった。これに先立ち、ノーランは日本軍第16師団参謀長の中澤三夫や上海派遣軍参謀長の飯沼守を尋問し、松井が南京陥落直後には日本軍による略奪や強姦などの残虐行為を知っていたこと、さらに彼が南京攻略の最高指揮官として実際に軍を指揮していたことを裏付けていた。松井は南京大虐殺の残虐行為を明らかに知りながら放置したとして、最終的に極東国際軍事裁判で有罪とされ、絞首刑に処された。
東京裁判においては、天皇をはじめとする日本の皇族の戦争責任が追及されず、細菌戦や化学戦の戦犯も米軍占領当局の庇護下で法の網を免れるなど、日本軍国主義の残存勢力が完全に一掃されることはなかったものの、東京裁判の正義と歴史的貢献は揺るぎないものであり、これを否定することは許されない。
この国際裁判は、反ファシズム連合国と世界の人々の共通の意志を体現し、第二次世界大戦の勝利の成果を守り、戦後国際秩序の法理的基盤を確立し、正義・光明・進歩が邪悪・暗黒・反動に必ず打ち勝つことを人類に示したのである。(編集NA)
「人民網日本語版」2026年4月27日